●私の携わった開発機種数がNO.1?
定年1年前に私の肩書だった「RAD」という研究所と本社をまたいで事業観点で開発を統括するという役割が無くなって、研究所の「LPL」がRADに替わって統括するということになった。(現在はさらに進化しているらしい)。
その結果、私は定年まで1年足らずという時期に機種開発を離れることになり、することがなくなり(笑)、かねてから社内的にあやふやだったホンダブランドをキチンと考えたいと思った。同時にIT社会が進む中で、クルマとITの関係にも興味があった。IT企業は水平分業型のビジネスでプラットフォーマーと呼ばれ自動車産業の重厚長大な垂直統合型ビジネスに対して、スピーディーに新商品(システムなど)を生み出すことが出来た。
今では〝コンピューター漬〟になっているクルマだから今後はスマホのようにOTA(Over The Air)と呼ばれる無線経由のソフトウェア更新が出来るのではと思えたり、自動運転技術も含めIT関連で取り組む課題は多かった。
ブランドと同時にIT室みたいなものも社長にお願いして(騙して?)立ち上げた。その後2年(定年後1年ちょっと)ほどで私は退職した。ちなみに、私の場合働きが悪かったせいだと思うが「定年なんだから早く辞めろ」と言わんばかりでホンダの人事や上司は冷たかった。当然のように給与は半分どころか激減した。ホンダはそう言う意味でも大きく変わってしまっていた。
しかし、ホンダ人生を終わってみると、携わった機種開発は多く、企画から販売まで携わった機種は20機種を超えた。「結果的に携わった機種開発数世界一(未確認!)なんだからスゴイ」と内外の人に元気づけられた。思い起こすと、元々、ホンダに入った時は「大好きなクルマの一部分でも設計できたらいいな」と思っていた程度だったが、こんなに沢山の機種開発に携われて幸せだったと思う。
●ブランド室とIT室
ホンダにおいて、ブランドとは「H」マークやお店の統一感とか車体のどこにエンブレムを貼るか程度の理解しかなく、またそのイメージを社員やユーザーに聴くと「スポーツ」という人もいれば「ミニバン・家族」という人もおり世代においてバラバラだった。これは、「俺たち何者?」という不思議発見に近く、さすがにキチンとしておかないといけなかった。つまり、社内はこういう企業ブランドよりも販売台数を物差しのようにして20年以上やりくりしてきたのだ。
国内の自動車販売台数は1990年をピークに下降線となり、ホンダだけでなく、各社も工場を抱えていることから生産台数(販売台数)の減少が大きな課題となった。カーメーカーはこぞって「売れる商品」を目指し下手なマーケティングを行った。結果、乗り心地と静かさ、万人受けするデザインー・カラーなど会社は違っても開発コンセプトが基本同じになった。結果として、出てくる商品が同じようになるのは自然な事だった。いわゆるコモディティー化だ。
こうなると「親しみ」や「信頼感」というようなブランドイメージと価格の競争になる。漠然と「ホンダブランドは盤石」と考えてきていた自分は間違っていた。ブランドを再構築する必要があった。
一方で、世間とユーザーの目は〝GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)〟と呼ばれた先端企業に向いて、クルマは「つまらなく飽きられて時代遅れ」という価値観になってきていた。ブランドと同時にIT時代のクルマを考える必要があった。その当時、サンフランシスコ近くのシリコンバレーに行ったり、スマートハウスを勉強したり、アメリカのゲーテッドシティに行ったり三現主義であちこち飛び回って考えた。
●ブランド議論
役員も含めたホンダのほぼ全社員はブランド自体を理解出来ていなかったが、一人考え抜いた人がいて(この辺りがホンダのすごいとこ、指示命令の無い仕事をやっていた人がいた)教えてもらい、議論し、ホンダブランドを本質から考えるべく取り組んだ。
当初、行き着いたのは「世代によってホンダブランドのイメージは異なり、様々な側面がある」という事だった。ある世代は「F1」、またある世代はミニバンからくる「家族」、さらに「若さ」「チャレンジ」「エンジン」「独創的」など全く様々だった。
それで、多面体を絵に書いてそれぞれの面にブランドイメージを書いて「これがホンダブランド」とした。つまり、ホンダブランドは成り行き任せで、ユーザーや世間にとって時代とともに変化しており、とりとめが無い状態と言いたかった。
●結局ホンダブランドは?
あれもこれもがホンダというのでなく、やはり、ホンダと聞いて多くの人がイメージするのが何か一つであるべきと考えた。ブランドが定まると、企業戦略から商品開発、営業活動にブレークダウン出来る。その時は「うーうん」とうなっていたが、定まりきらず、私の定年を迎えてしまった。つまり後輩に譲ったのだ。引継ぎをしないホンダという事もあり、元々指示待ち体質で育った後輩は困ったと思うが、その後の商品を見ているとどうもブランドはなし崩し、元の木阿弥になっていそうだ。
今は既に退職しているので何にもならないのだが、自分なりにホンダブランドを考えてみた。
「モビリティへの夢や課題を技術で達成し、ユーザーや世の中の人達に喜んでもらえる企業」
長いな。一言で「モビリティの将来を新技術で拓き世間が喜ぶ企業」でどうだ?
ジェットやロケットはこう言う意味で良いと思うが、やはり二輪・四輪・汎用の世界でも独創的新技術をどんどん開発出来たら良いのだが。
ホンダと聞いて「モビリティの将来を新技術で拓くブランド」と思い起こしてもらい、結果「ユーザーや世の中の人達に喜びを与える会社」と続くと望ましい。「また長い!」…先輩の声が聞こえる(苦笑)。そう言えば若い頃から多くの先輩と禅問答のようなやり取りが多く、苦しめられた。
●「私のホンダ記録」連載のまとめ
私が「私のホンダ記録」の連載で言いたかったことは、ホンダという会社は元々「自己実現の場」で、出身校や学歴など関係なく自由平等で自分の能力を100%発揮させてもらえ、結果、個人の人生の充実がある会社だったということだ。つまり「アメリカンドリーム」のような会社だったのだ。
仕事の種類を問わず「三つの喜び」の理念で独創的な商品(技術)を創造したり、自分の仕事の本質を理解し自分の創意工夫で取り組んだり、とにかく失敗しながらでも情熱をもって取り組む事が出来る会社だった。このことは、個人の生活においてもポジティブな生き様が出来るということにつながった。時代の流れという事も現実的にはあるが、こういうホンダイズムをより多くの人に知ってもらいたかった。
最後になるが、社員が情熱をもって創造的な仕事を達成するにはコトの本質まで考え抜けることが大切で、そのためにホンダではワイガヤをやっていた。ワイガヤは本質追求の場だった。
●終わりに
お陰様で私のホンダ記録も今回のVOL.33「ブランド編」で終了となります。ご愛読ありがとうございました。
次回からは、自動車産業が時代変化の中で喘いでいる今、再活性化することを目指し、自動車産業や社会、商品のあるべき方向性などを社会やユーザー目線も含めて考えていきたいと思います。そのイメージを「ガートナーのハイプ・サイクル」に乗せてみました。参考にしてください。
今後とも、よろしくお願いします。