初代ルーチェ(1966年)
初代サバンナRX─7(78年)

 松田重次郎らが「東洋コルク工業」を広島市に創業してから30日で1世紀を迎える。自動車メーカー「マツダ」となった同社は、年産150万台の規模ながら、その商品や開発手法で国内外から一目置かれる存在になった。だが、その道程は軍需工場化と原爆投下、住友銀行主導による再建、米フォード・モーター傘下など波乱に満ち、順風満帆とは対極の連続だった。マツダがどのように100年をサバイブし、この先へつなげようとしているのか。関係者に取材した。〈10回連載〉

 「ランナー1、2塁まではいくんだが、それを返すタイムリーヒットが出ない。『阪神と一緒や』と住銀出身の和田さん(淑弘、元社長・会長)なんかは言ってましたな」-熱狂的な阪神タイガースファンの神戸マツダ会長の橋本一豊は笑みを浮かべてかつてのマツダの商品を振り返る。広島市内のタクシードライバーは「マツダといえば『売れている車を売れなくするのがうまい』と言われている」と話した。製造にも販売にも一番ありがたい、安定して売れる車を出し続けるというよりは、ときに思いがけぬブームを起こすメーカーという印象がこの会社にはある。

 爆発的に売れたロータリーエンジン(RE)搭載の「サバンナRX-7」、第1回日本カー・オブ・ザ・イヤー(1980-81)を受賞した「赤いファミリア」、世界にオープンスポーツカー復活の波を起こした「ロードスター」など、独自性の強い車づくりでマツダは知られてきた。

 なぜ、個性的なのか。それは、トヨタ自動車や日産自動車などの大手に対抗し、存在感を示そうとしてきたからだ。ミラーサイクルエンジンを開発し、1993年に乗用車(ユーノス800)で初めて実用化したマツダOBの畑村耕一は「先進的なことをどんどんやらないと生きていけない。特徴がないと誰も買ってくれないという意識があった」と語る。

 技術志向は創業当初から強かった。コルク栓・コルク板製造から1931年に小型の三輪トラック(オート三輪)製造に踏み出すと、海外から導入した最新の工作機械を生かし、毎年モデルチェンジを行う「年式」方式で大型化と性能向上を重ねた。第2次世界大戦中の中断をはさんでライバルの発動機製造(現ダイハツ工業)とともにシェアを拡大した。三輪車中心だった1960~62年には四輪車と合わせた総生産台数でトヨタ、日産を抜き日本一になったこともある。三輪トラックは、戦後復興期に庶民の貨物輸送を担った。四輪車には50年代からトラックで参入し、60年には軽乗用車の「R360クーペ」を発売した。

 だが、四輪車の世界では、オート三輪メーカーを示す「バタンコ屋」上がりと呼ばれることも多く、トヨタ、日産に負けない車づくりが技術陣の目標となった。このあたりは、二輪車から参入した本田技研工業(ホンダ)にも通じる挑戦者精神といえる。その結晶である「コスモスポーツ」「サバンナ(RX─3)」などのRE車、デザインの大家ジョルジェット・ジウジアーロを日本で初めて起用した「ルーチェ」、欧州のFF車のパッケージと走行性能に学んだファミリア、曲面的な外板パネルや高品質塗装が話題になった「ユーノス500」など、特徴を持つ車を送り出した。

 ただ、それらが散発的だった面は否めない。冒頭の「タイムリーヒットが出ない」という評価にもあるように、安定感や方向性が欠けていた。マツダの開発トップを務めた前会長(現相談役)の金井誠太は「個性を大事にするのはいいが、その都度変えていては効率が悪く、技術も蓄積しない。それぞれの車以上に『マツダの個性』を出すべきと考えた」と言う。後の「モノ造り革新」につながる萌芽は、フォードの支配下にあった90年代後半に芽生えていた。その経緯は連載の後半で検証する。(敬称略)