1963(昭和38)年9月27日付の本紙。のちのコスモスポーツ(67年発売)につながる試作車のスケッチと松田恒次社長(当時)の談話を掲載した
1970年代の開発風景。手前はロータリー エンジン搭載の「コスモAP」      

 ロータリーエンジン(RE)は、現行の搭載車種が1つもないにもかかわらず、マツダの象徴として広く知られている。それは、自動車の歴史で常に最優先の技術課題であった「エンジン」に対し、準大手が本流(レシプロ=往復運動=エンジン)とまったく異なるアプローチで挑んだ物語であるからだ。

 今ではほとんど忘れ去られているが、REは1960年代から70年代初めにかけて、動力と環境を両立するブレークスルー技術として世界の自動車メーカーから注目されていた。西独バンケルとともにREを開発した西独の二輪/四輪車メーカーNSU(のちのアウディ)の特許を使用しRE開発に乗り出したメーカーは、東洋工業(現マツダ)のほかに、西独ダイムラー・ベンツ(現ダイムラー)、ポルシェ、米ゼネラル・モーターズ(GM)、伊アルファロメオ、トヨタ自動車、日産自動車、スズキ、ヤンマーディーゼル(現ヤンマー)など多数に及んだ。

 REの可能性に目をつけたのは、創業家2代目社長の松田恒次だった。前会長で相談役の金井誠太は「1961(昭和36)年に通産省の3グループ構想が出て、マツダは軽専業になりなさいと勧められた。総合メーカーを目指した恒次はこれに反発した。それでマツダの存在理由を高めるためにREを選んだ」と説明する。

 恒次はただ一人の代表取締役の身ながら1960年9月西独へ飛びNSUと交渉し10月12日に技術提携の仮契約に調印した。ワンマンのオーナー社長らしく、素早い決断と行動だった。

 だが、当時のREは実用化には程遠かった。「自分たちにできないものをNSUとバンケルは高く売りつけようとした。マツダはだまされた」と話す関係者もいる。ここからマツダの挑戦と苦闘が始まる。

 REはおむすび型のローターが楕円形のハウジング内で回転する。回転に伴って三辺に接する三日月状のすき間は容積を変え、吸入、圧縮・点火、爆発、排気の4工程を繰り返す。

 問題はハウジング内壁とローターの頂点(アペックス)がこすれて生じるキズだった。「悪魔の爪痕」と呼ばれ、REの耐久性に致命傷を与えた。のちにマツダ社長になる山本健一らのRE開発チームは夜を日に継いで研究を続け、日本カーボンとカーボンアペックスシールを開発するなどし、耐久性の確保に成功した。RE第1号の「コスモスポーツ」は64年の第11回東京モーターショーに出展され、67年5月に発売された。

REが熱気を帯びた時代だった。恒次は63年9月27日付の日刊自動車新聞で「近い将来必ずロータリーエンジンの時代が来る」と語った。翌月の第10回全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)では、東洋工業の向こうを張り、いすゞ自動車が突如REを展示し各社を驚かせる一幕もあった。

 一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)排出量の大幅削減を義務づけたマスキー法(大気清浄法)が70年に米国で発効し自動車業界はかつてない環境技術開発の壁に直面した。マツダのREはホンダのCVCC(複合渦流調整燃焼)エンジンとともにマスキー法をクリアし、GM、トヨタ、日産もRE開発に本腰を入れる展開となった。マツダは70年に恒次が死去し、長男の耕平が社長を引き継いだが、その以前から「ファミリア」「ルーチェ」「カペラ」「サバンナ」にRE車を全面展開し、REへの傾斜を強めていた。

 しかし、73年末の石油危機で事態は暗転する。ガソリンを節約する意識が一気に高まる中、米環境保護庁(EPA)が、マツダのRE車の燃費を「通常のエンジン車より5割悪い」と発表したのだ。「ガスガズラー(ガソリン大食い)」のレッテルを張られ、RE車の在庫が一気に積み上がった。75年10月期のマツダの経常損益は173億円の赤字に転落し、会社上層部の一部が更迭。住友銀行から派遣された副社長の村井勉を筆頭に、住銀と伊藤忠出身者が固める体制になった。耕平は77年に社長から代表権のない会長に退いた。

 悪評を返上するため、マツダは燃費4割改善を目指す「フェニックス計画」を74年に打ち出した。熱交換器方式のアイデアなどで最終的には5割改善を果たす。ただ、REの搭載は次第に高価格帯のスポーツカーやスペシャリティカーに絞り込んでいった。耕平の社長退任後の78年に発売した「サバンナRX-7」はリトラクタブルライトの採用もあって人気を呼び、RE復活を印象づけた。

 REが歴史を刻んだのは1991年の「ル・マン24時間レース」だった。4ローターの「マツダ787B」がREが出場できる最後の年に総合優勝を成し遂げ、日本車初の称号を勝ち取った。

 REはマツダに栄光と挫折をもたらした。成功体験であり、後悔させるほどの痛みも伴った。確かなのは、平穏無事な道ではなかったということだ。(敬称略)