「GT-R ニスモ スペシャルエディション」は炭素繊維複合材料を用いた専用外装が特徴だ
アナログの計器類にモデルライフの長さが感じられる
排気量3.8リットルのV6エンジンは職人の手で組み上げられる
2007年、当時の中計「バリューアップ」の下で発売され、約18年の歴史を歩んだ
次期GT-Rは…(ジャパンモビリティショーで公開したニッサンハイパーフォース)

 日産自動車は、フラッグシップモデル「GT―R」(R35型)の受注を1月末までに打ち切った。栃木工場(栃木県上三川町)での生産も今夏までに終了する。2007年12月の発売後、国産随一のスーパースポーツ車として存在感を保ったが、この間、日産の経営は揺れ動いた。カルロス・ゴーン氏時代から今日まで、進化を重ねた現行GT―Rを通して、日産のこれまでとこれからを読み解く。

 4月下旬、記者は「GT―R ニスモ スペシャルエディション」の2024年モデルの試乗機会に恵まれた。専用エアロパーツで武装された最高グレードだ。炭素繊維製のシートに恐るおそる身体を沈め、エンジンを始動させると、排気量3.8㍑のV型6気筒エンジンが咆哮を上げた。横浜工場(横浜市神奈川区)の5人の「匠(たくみ)」が手作業で組み上げたエンジンだ。

 公道に出ると、その存在感と消費税込み2915万円の価格とは裏腹に、クルマとしての扱いやすさが印象に強く残った。アクセルを踏み込めば最高出力600馬力で力強く加速するものの、四輪駆動と運動制御システムによって挙動が乱れることはない。日産のものづくりの粋を集めた性能や品質の高さが感じられた。もっとも、デジタル液晶メーター全盛の時代、目の前に並ぶアナログ式の計器類とモノクロディスプレーにGT―Rが歩んだ長いモデルライフも感じた。

 R35型はゴーン氏の肝いりで、開発責任者の水野和敏氏らによって生み出された。当時は05年からの中期経営計画「バリューアップ」の最終年度。11車種に及ぶ新型車の目玉として登場した。R35型から量販「スカイライン」ベースではなくなった一方、輸出も始まった。

 そんな矢先、翌08年秋にはリーマンショックが発生。新車需要は〝蒸発〟し、日産の経営も打撃を受ける。08年度は1999年度以来の最終赤字となり、計2万人の人員削減や設備投資の抑制などで体制の立て直しを図った。

 11年の東日本大震災後、同年6月に6カ年の中計「パワー88」を公表する。中国や東南アジアなど新興国への投資を強化し、営業利益と世界シェア8%を目指す野心的な内容だったが、結果は目標未達に終わる。ゴーン体制下で最大720万台(18年度)まで増強した生産能力は、24年時点で500万台まで減らしたものの、今も重荷として残る。

 この間、GT―Rも年次改良を繰り返し、最高出力は発売から10年で480馬力から570馬力へと2割高まった。こうした折、18年11月にゴーン氏が報酬の過少申告問題で逮捕される事態に。翌19年には社長だった西川廣人氏にも不正報酬問題が発覚。ガバナンス(企業統治)とコンプライアンス(法令順守)が問われる事態となり、日産のブランドイメージは大きく毀損(きそん)した。

 19年12月から5年余り続いた内田誠前社長体制も、新型コロナウイルスの蔓延とその後の半導体不足、中国の市況悪化などに見舞われる。米国では〝安売りブランド〟との認識が広がり、販売奨励金頼みの販売が続いた。燃料高で日本製を中心にハイブリッド車(HV)の需要が伸びる中、純内燃機関車のGT―Rは日産の復活を待たずして歴史の幕を閉じる。

 今春、就任したイヴァン・エスピノーサ社長は自他ともに認めるクルマ好きだ。日産を代表する旗艦車種「ハローモデル」の必要性にも言及しているが、まずは事業再生計画「ターンアラウンド」の遂行と止血が最優先であることは言うまでもない。

 4月24日には、24年度決算が7500億円規模の赤字になると発表した。能力過剰だった生産設備の減損処理が5千億円超を占めるが、赤字額としては過去最大。人員と生産能力の削減、開発期間の短縮やブランド再建、販売網改革など、待ったなしの課題が山積する。

 仮に計画通りに4千億円のコストを削減し、26年度までに営業利益率4%を達成できたとしても、電動化・知能化時代を乗り切れる保証はない。ルノーや三菱自動車とのアライアンス(企業連合)やホンダとの提携の行方など、日産の未来の姿を予見するのは今の段階では難しい。

 一般的な新車の倍以上の長い期間、全面改良せずに歴史を紡いだ現行型GT―R。世界中のプレミアムブランドに引けを取らない高性能を世界に誇示し、日産のイメージを引き上げた功績は大きい。険しい事業再建の先に純国産スーパースポーツ車は再び生まれるのだろうか。光明はまだ見えない。

(中村 俊甫)