オフィスビルには、その時代の思潮や企業のメッセージが込められている。戦後や高度成長期に建築された建物の更新期が近づく中、2023年度に地域の再開発にともない解体された「ホンダ八重洲ビル」(東京都中央区)に研究者らが注目し、データのアーカイブなどに取り組んでいる。その研究の一端が、本田財団(石田寛人理事長・代表理事)の講演会で紹介された。
ホンダの本社として八重洲ビルが建設されたのは1960年。以来63年間にわたり八重洲のランドマークの一つとして親しまれてきた。後に原宿そして1985年に竣工した「ホンダ青山ビル」に本社機能が移管されたが、特に青山が同社の新たな顔として浸透した。ただ、解体を控えた2022年、八重洲ビルの入居者らから「歴史的な建造物としてその足跡を後世に残すべき」との声が上がるなど、機運の高まりを受けて調査が始まった。
調査の中心役を担った大阪公立大の倉方俊輔教授らによると、建築当時は資材の規格化が進んでおらず、階段や手すりなど一点もので制作されることが多かったという。デザインは、素材の特性を生かしたモダニズム(合理的な近代的建築)が多く見られた時期で、そうしたトレンドの影響を受けたところが随所にみられる。
60年代は、ガラス張りの建物がまだ珍しかった時代で、開放感のある外観がひと際目立っていたそうだ。入口から2階のロビーに続く階段や吹き抜け構造でも開放感を強調した。最上階の見晴らしのいい場所に社長室ではなく社員食堂を設けるなど、社員の働きやすさを最優先に設計した。青山のビル1階のウエルカムプラザ青山と同様なオープンスペースを作り、談話室を地域に開放したことも特徴。プライベートな企業ビルの中に地域向けのパブリックな空間を設けたのは、新鮮なアイデアだった。
設計者は、斎藤寅郎氏と中山克己氏で、共に早稲田大学建築学科卒。斎藤氏は朝日新聞の記者という顔も持つ異色の建築家で、本田宗一郎氏との縁もありホンダのビル設計にかかわったようだ。
時代に合わせて仕切りを可変できる設計を当初から構想し、これを具体化して柔軟な設備運用につなげていたという。
こうした設計には、施主の思想が強く表れており、倉方教授は「ホンダらしくなっていることがうかがえる」という。
製造業らしく、図面や当時の周辺調査資料、写真、社内文書などが豊富に残されている。オフィスビルでは時に、オーナーが「施主」として建築会社に発注し「注文はつけるが細部は任せる」といった場合も多い。しかし八重洲ビルではホンダが担当チームを設け、設計者や建築側と意見を交換しており「会社のプロジェクトとしてホンダが前面に出ていたことが分かる」(倉方教授)という。
解体には建物の終わりという残念な面もあるが、そうした契機がないと、記録などの保存や伝承活動になかなか注目が集まらないという側面もある。今回、当時のさまざまな時代背景などを探る中で、例えば、都心でもいち早く整備されたガソリンスタンドが近くにあったり、バスの発着場所が目前にあったことなども考え合わせると、モータリゼーションの1つの「顔」としての八重洲ビルの姿も浮かび上がってきた。
「建築は工学の一分野であると同時に、建設当時の技術、社会や思想のあり方を示すもの」と倉方教授。解体直前の2023年には「最初で最後の八重洲ビル見学ツアー」を主催し、その歴史的な意義と役割を発信した。
さらに倉方教授が実行委員長を務める「東京建築祭」では毎年、「建築から、ひとを感じる、まちを知る」をテーマに、都内の歴史的・特徴的な建築物の見学ツアーを催している。2024年には、日本橋、銀座、丸の内周辺を会場に6万5千人の参加を集め、建築への関心と理解を高めてもらった。同様に解体を控えていた帝劇ビルなどの見学会も盛況だったという。
本田財団の講演会では、竣工当時を再現したビル模型の展示や調査の様子を収めた映像を上映。参加者らが熱心に見入る姿が印象的だった。同ビル内のオフィスで仕事をしていたOBらが模型を前に、「この辺で仕事をしました」「ワイガヤの現場だった」と懐かしむ光景もあった。
倉方教授は「ビルの魅力には、そのビルを造り、また育ててきた人たちの人間的な魅力が寄与している」と指摘する。八重洲エリアでは、ホンダのビル以外でも「八重洲ブックセンター」などが地域のランドンマークとして親しまれていたと振り返る。
ホンダ八重洲ビルの解体を機に、モータリゼーションの歴史の一端が明らかにされつつある。こうした企業のメッセージを具現化したオフィスビルを読み解き、アーカイブ化する取り組みが一段と活発になりそうだ。
(編集委員・山本晃一)