「アキュラ」「レクサス」「インフィニティ」―。1980年代後半、日本の自動車メーカーが北米で立ち上げた高級ブランドだ。このうち、トヨタ自動車のレクサスだけが日本上陸を果たした。販売を開始した2005年はバブル崩壊後の、後に「失われた20年」と言われるデフレ期。しかも、3年目にはリーマンショックに直面し、高級車市場も大打撃を受ける。レクサスの20年は決して順風満帆な環境だったとは言い難いが、愚直に商品とサービスを磨き続けた。その結果、ホンダや日産自動車が成しえなかった国内メーカー唯一の高級車ブランドを確立した。
「プレミアムブランドを日本に根付かせる『生みの苦しみ』と、逆にその『成果』はあったと思う」―。レクサスインターナショナルの渡辺剛プレジデントは、国内におけるレクサス20年の歴史をこう振り返る。
レクサスブランドが誕生したのが1989年。キャデラックやリンカーンなど重厚かつ巨大な車両が幅を利かせていた米国の高級車市場で、高品質かつ静粛性に優れた初代「LS」は風穴を開けた。ホンダのアキュラ、日産のインフィニティとともに日本の高級車ブランドは北米市場に受け入れられ、一定の地位を築くことに成功する。
一方、日本へのレクサス導入は、北米投入から16年も後になった。「高級車=輸入車」というイメージが根強く、バブル崩壊後の国内市場において新たな高級ブランドが受け入れられるかは未知数だった。そのため、レクサス上陸前の日本市場において、LSは「セルシオ」、「GS」は「アリスト」、「IS」は「アルテッツァ」とトヨタバッジを付け、既存のトヨタ販売網を通じて販売していた。
レクサスの国内導入に先立ち、2003年にはレクサス国内営業部を新設。独自の販売ネットワークを新規に構築することを決める。トヨタブランドと差別化を図るため「最高の商品」を「最高の販売・サービス」で提供することをコンセプトに定めた。同時に国内ではネッツ店とビスタ店を統合し、トヨタの販売チャンネルは従来の5つから4つに再編。レクサスの国内導入は単なる商品展開でなく、国内流通改革の一環でもあった。
05年8月30日、全国143店舗でレクサス店の営業が一斉に始まった。開業時に発売したのは3代目GSと2代目「SC(ソアラ)」の2車種のみ。1カ月遅れてIS(2代目)が発売された。フラッグシップのLS投入はそれから1年後となる。国内ではセルシオやアリストの存在があったからだ。一部の消費者からは「トヨタのエンブレムをレクサスに代えただけ」と揶揄(やゆ)されることもあった。こうした指摘は、すでに複数の高級車を販売していたトヨタブランドの強さの裏返しでもあった。
レクサスが国内でプレミアムブランドとしての地位を確立するには、商品だけでなくレクサスならではの新たな価値提供が欠かせなかった。それが海外の高級ホテルやレクサスカレッジなどで学んだスタッフによる「最高のおもてなし」だ。従来のトヨタとは一線を画す高級な店舗意匠もあってレクサスの認知度も徐々に高まっていった。
LSの投入によって06、07年の販売は3万台を超えてレクサスの販売は軌道に乗り始める。しかし。08年はリーマンショックの影響で一気に落ち込む。開業からわずか3年、多額の投資を要した新規事業だけに販売会社の経営環境は悪化。その後、国内は長く低成長期に投入し、高級車市場は〝冬の時代〟を迎える。
販売が伸び悩む中で09年に投入したハイブリッド車(HV)専用モデル「HS」について「数が出たので初期投資の回収が進められるようになった」(甲信越地方のディーラー首脳)。同年にはSUV「RX(3代目)」を投入。後にレクサス販売のけん引役となるHVやSUVのラインアップを徐々に拡大していく。さらに同年、車両価格3750万円の限定スーパースポーツ「LFA」を発表し、高級ブランドとしてのレクサスの地位は揺るぎないものになった。
レクサス立ち上げ当初に掲げた販売目標「5万~6万台」の達成には結局、10年以上の期間を必要とした。売りだった高品質なクルマづくりは、時に海外の評論家から「レクサスはつまらない」と評されることもあった。それでも試行錯誤を重ね、商品を投入し続けてきた。16年以降、国内では新たなコンセプトを採り入れた店舗展開をスタートさせた。23年の国内販売は9万台を突破。供給問題がなければ10万台の大台に届く勢いを見せた。
アキュラとインフィニティの日本参入の噂は幾度となく浮上したが、結果的に実現していない。デフレ下だった日本で新規ブランドが高級車市場を開拓するのは決して容易ではなかった。レクサスはメーカーと販売店が両輪となり着実に顧客基盤を広げ、先行する輸入車勢の牙城(がじょう)を崩すことができた。富裕層の顧客基盤は、メーカーやディーラーにとって大きな〝果実〟となる。