1931年12月発行の「自動車年鑑」創刊号 表紙
1931年12月発行の「自動車年鑑」創刊号 中表紙
1932年4月、本紙主催の第1回「自動車展覧会」が東京・日比谷公園で開かれる。戦時中断を除き、53年まで都合16回開く。以降、自動車4団体に主催を譲り、東京モーターショー(現ジャパンモビリティショー)につながる
1932年4月、本紙主催の第1回「自動車展覧会」が東京・日比谷公園で開かれる。戦時中断を除き、53年まで都合16回開く。以降、自動車4団体に主催を譲り、東京モーターショー(現ジャパンモビリティショー)につながる
警視庁の要請を受け交通事故防止のためのポスター、宣伝ビラを本紙が寄贈。トラック2台分を警視庁正門前に山と積む(1932年)
「美人早回り競走」の出発地点に勢ぞろいした芸能関係の10人。映画「女給」に出演した北条珠子さん、歌手の淡谷のり子さんらが参加。東京市バスで12名所を巡った。(1934.5)
陸軍の機械化を促す目的で組織した「国防自動車献納会が1932年8月、軍用車55台を納めた際の記念写真(靖国神社)
1952年4月に日比谷公園広場で開かれた日刊自動車新聞社主催の「第15回自動車産業大展覧会」。この翌年には、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツの車も出品されて国際ショーとなり、本社主催の最後を飾った
1936年7月には本紙の題字を「工業日日新聞」に変更。本社のあった築地ビルに懸垂幕をたらし、業容の拡大を図ったが…

 日刊自動車新聞創業の地は、現在の東京都港区西新橋。当時の陣容は配達員15人を含む120人だったという。輪転機も自社で備え、印刷も行っていた。創刊当時の経営は苦しかったというが、北海道、九州、朝鮮、台湾、大連に相次いで支局を開設した。31年には「自動車年鑑」も発刊している。

 一時的だが、題字を変更したこともあった。36年2月の創刊記念日に「交通新聞」に変更。さらに同年7月には工業紙から幹部を迎え、「工業日日新聞」に改題した。しかし、この業容拡大策が裏目に出て経営は悪化。翌37年秋には印刷機の売却などにより人員体制を150人から15人に縮小せざるを得なかった。頁建ても4頁に縮小し、印刷を外注するといった大改革を余儀なくされた。

 その後、40年の業界紙の第1次新聞統合では5社を買収して生き残ったものの、42年の第2次新聞統合で中外商業新報(現在の日本経済新聞)に題字と紙の配給権を売り、10月31日付で廃刊した。

 戦後は47年10月に週2回の発行で「日刊自動車新聞」を復刊する。用紙統制の解除により、52年1月からは名実ともに日刊紙となり、閉鎖されていた支社体制も再開した。マイカー時代の到来を予期して、57年には「日曜版」を発行して無料で配布した。翌58年には海外向けに「ジャパン・オートモーティブ・ニュース」を創刊し、138カ国に配布した。さらに61年に「外国車アルバム」、65年に「国産車アルバム」、71年に日曜版を基にした週刊誌「ザ・モーター」を創刊するなど、自動車オーナー向けの媒体を相次いで発行した。73年3月には、現在の「月刊整備戦略」の前身となる「整備工場 戦略経営時代」を創刊している。