1929年2月、日刊自動車新聞創刊号。当時はタブロイド4㌻建てを基本に発行していた。購読料は1カ月1円、6カ月5円50銭。1年10円だった
36歳の頃の創業者・木村正文氏
◀創業者の父で東京毎夕新聞社主の木村政次郎氏

 日刊自動車新聞は1929年2月、日本初の自動車専門新聞として創刊して以来、日本の自動車産業をその揺籃期から見つめてきた。新聞をはじめとした媒体の発行だけでなく、東京モーターショー(現ジャパンモビリティショー)の前身である「自動車展覧会」やラリー競技大会「日本アルペンラリー」といったイベントを開催し、日本のマイカー普及やモータースポーツの振興にも深く関わってきた。世界の自動車産業が激動期を迎えている今、業界の「道標」となるべく創刊した日刊自動車新聞の役割は、「雲中」ゆえに光明となることが求められている。

 日刊自動車新聞が創刊された当時は、日本の自動車保有台数がわずか8万台あまり。米国のフォード・モーターやゼネラル・モーターズが日本に組み立て拠点を相次いで構えるなど、外国車全盛の時代だった。創刊号の宣言文には、「自動車は世界文化の第一線に立つ花形役者であり、世界新文化のオーガナイザーとして、さらに極めて重要な役割を演じつつある」と、今に続く自動車の時代の到来を予見する文言が並ぶ。さらに、欧米には自動車業界専門の日刊紙がすでに複数存在し、確固とした発行部数と信認を得ているとし、日刊自動車新聞が日本の自動車産業発展の道標となる決意を表明している。

 創業者の故・木村正文氏は30歳のときに日刊自動車新聞を立ち上げた。木村氏が自動車専門紙の創刊を思い立ったのは、父・木村政次郎氏の影響によるところが大きかったと考えられる。丁稚から日本橋・青物市場の頭取、横浜米穀取引所理事長を経て「東京毎夕新聞」の社主に上り詰めた政次郎氏は、当時としては最先端の自動車オーナーでもあった。政次郎氏は代議士となった大正元年、馬車から「T型フォード」に乗り替え、その後、日本で最初の「キャデラック」を購入。ナッシュやページ、ハドソンといった米国車を何台も乗り継いだという。

 正文氏は中央大学を卒業すると、東京毎夕新聞に入社。サハリンなどに従軍記者として派遣されたほか、のちに広告部長も務め、新聞人としての経験を積んだ。もともと独立心旺盛で事業欲も高かった正文氏は、その後、オートバイ雑誌の経営に携わるようになる。日刊自動車新聞はこの雑誌を基盤として創刊した。当時、一般紙はすでに乱立状態で参入が難しかったことから、自動車分野での地位確立を目指したともみられる。正文氏は父の求めに応じ、副社長として再び東京毎夕新聞の事業を手伝うようになる。同紙に自動車欄を設け、日刊自動車新聞との連携を図るなど、32年以降は事実上、両紙の経営を担った。