「N-BOX」シリーズの開発は、マーケティングをキチンと行い、そこから軽自動車戦略、商品コンセプトに落し、製造~営業~部品メーカーまで連携して行われた。マーケティングというとユーザーの声(主に不満)を聴くことと思っている方も多いと思うが、それはマーケティングの一部で、私たちの行ったマーケティングは「天地人彼我」を調べ、そこから発想・創造するというものだった。2代目社長の久米さん(久米是志氏)から学んだ。(天=世の中、地=市場、人=ユーザー、彼=競合、我=自社)
「N-BOXシリーズの開発」は長くなるので数回に分け、まずは、ホンダにおける軽乗用車開発の経緯から始めたい。
ホンダは念願の四輪事業を軽自動車からスタートさせた。まず1962年に「S360」というカッコイイ、オープンスポーツカーを発表。その後、飛び抜けたデザインと高性能ツインカムエンジンを積んだトラックで63年に市場参入した。
世の中に対して、デザインとエンジンが凄いというホンダブランドを大きなインパクトで突き刺そうとした。結果、それは成功した。その後「TNトラック」はモデルチェンジしながら順調に販売を重ね「アクティトラック」へとつながっていった。
67年には、ホンダのその後の四輪ブランドを確固たるものにするスタート機種として通称「Nコロ」が発売される。「VANだ、JUNだ」と言っていた団塊世代若者の絶大な支持を得た。その飛び抜けたデザインやハードが ユーザーに刺さったが、それだけではなく「アパレルの ような身にまとうもの」「ライフスタイルを表すもの」としてとらえられた面もあった。
つまり、ファッション性を身に着けていたのだ。こういうクルマは他に無かったと思う。しかも、クルマは高価なもので買えるすべもない若者にとっても「買えるかも」と思わせる価格で発売された。東京・神奈川店頭価格で31万5千円だったようだ。
他の軽自動車がだいたい35万~45万円程度だったことを考えると大幅に安かった。多分、ホンダとしては、収益よりも台数売れるという世の中へのインパクトを考えた結果と思う。
「Nコロ」の大ヒットを受けて、初代「ライフ」「Z」「バモス」「ライフステップバン」とフルスロットル状態で矢継ぎ早に新型車が開発・発売された。軽自動車だけでなく「Nコロ」の後を継ぐ形で72年に「シビック」、さらに77年に「アコード」、81年に「シティ」、82年に2代目「プレリュード」と次から次へと登録車も大ヒットを連発した。
急速な機種拡大により軽自動車まで手が回りきらず、少し経った85年にやっとトゥデイが発売されたが、これも大ヒットとなった。
この時期のホンダは、販売台数を急速に伸ばし日産自動車が射程距離に入った。これだけヒット車を出せた理由は、私は副社長を務めた藤沢武夫氏(1949年本田技研工業常務、64年副社長、73年最高顧問に退く)が考え抜いた「開発体質造り」の結果が年月を経て実を結んだのだと考えている。それは、開発部門を研究所として独立させ、文鎮組織で自由闊達な空気を造り、クリエイティブな商品を生み出せる組織体質だった。
スズキ「ワゴンR」の登場は軽自動車市場を大きく変えた。ダイハツは直ぐに「ムーヴ」で追いかけた。
しかし、ワゴンRは93年9月3日に発売。ムーヴは95年8月25日発売。ムーヴの発売が早すぎないか?ワゴンR発売後に直ぐ「これはいける」と判断し開発をスタートしたとしても、2年後に発売までこぎつけるのは、ホンダの物差しでは考えられない。直ぐに物差しの検討を開始し後の特急開発に役立てた。現実として、ホンダにおいてもワゴンR影響で販売店から悲鳴が上がり対抗車種の開発要望が出た。
ただ、98年には軽自動車規格の見直しが行われる予定でその開発が始まっていたこと、登録車の開発で開発部門はパンパンだった。そんなこともあり、営業部門に「『98年ライフ』まであと3年程待ってもらえないか」との交渉のコの字のところで、営業のI専務から極大の雷を落とされた(その時の言葉はここにはとても書けない)。そして開発部門はハイトワゴンを特急開発で取り組むことになった。
特急開発はデザインFIXの仕方や金型製作など、キメ細かく要件を決めてから社内外で共有しスタートした。97年4月「2代目ライフ」は発売された。次の98年ライフまで1年半ほどの販売期間だった。しかしこの2代目ライフは、想像以上の評判の良さで継続生産を望む声も出た。
しかし、98年の規格改定でサイズアップした軽自動車の商品力は大きく向上し、軽自動車市場は活況を呈した。98年ライフは、ワゴンRとムーヴの競争に巻き込まれない乗用方向のコンセプトで、また販売台数で彼らを抜くことを目標としないなど少しひねって企画した。しかし、結果的には2代目、3代目ライフの約6年半で、累計販売台数100万台を超えるというホンダ最速のスピード販売となった。
その後ライフは2世代にわたって3代目とほぼ同じコンセプトで造り続け、マーケットの中で存在感を失っていた。また、バン・トラックは過酷な使われ方をしても耐久品質が高かったが、その分スズキやダイハツに比べて価格が高く、販売台数が少なくなり製造原価が高くなりと、負のスパイラル状態に陥っていた。またバン・トラック市場そのものもシュリンクしており、2社あれば十分で3社目の椅子は無かった。ホンダの軽自動車戦略においてバン・トラックは大きな検討項目となった。
さらに、マーケティング(天地人彼我)の結果をみると、2008年のリーマンショックやいつまでもバブルの後遺症が残る日本経済など 世の中の空気は良くなかったが、軽自動車販売は経済事情と反比例し右肩上がりであった。またダイハツからは〝スーパーハイト〟と呼ばれる背のうんと高い「タント」が発売され市場をリーディングした。
ユーザーの価値観としても、1998年の軽自動車規格改定後「軽自動車で充分」というのが常識になり、軽自動車の魅力は向上していった。考えてみたら、日本の一般道は狭く、信号も多く(軽自動車は軽いので発信・停止の繰り返しでも燃費がいい)、駐車場も狭く…軽自動車サイズがちょうどいいのだ。
そんな中、ホンダとしては柱であるべきアコード、シビックは見る影もなくなり「インテグラ」「インスパイア」なども落ち込み、ミニバンの大黒柱であるはずの「ステップワゴン」「オデッセイ」も、時代に逆行して背を低くして不評となり他社にユーザーを逃していた。市場は全体的にも登録車が落ちていたが、ホンダの登録車はピンチといえた。
これらのマーケティング結果(実は山のようなデータ)から考えてみると、軽自動車販売比率は35%程度であったが、半分近くまでが軽自動車になってもおかしくないと感じた。
つまり、日本の自動車市場において「軽自動車販売がキーになる、本気でホンダの軽自動車戦略を練らないといけない」と強く感じた。しかし、社内では「儲けの薄い軽自動車を頑張るよりも、登録車にもっと力を入れた方が良い」という意見が多かった。一方で、ホンダで軽自動車は四輪創業以来の歴史のあるカテゴリーで先人へのリスペクトも大きく、それだけ意見する人も多かった。
「バン・トラック」「軽乗用車」「登録車」の三つ巴と、それぞれの立場の人の事情や意見を飲み込んで、バラ色の軽自動車戦略を創り社内外で共有するのは企画者にとって「最高の栄誉!」というのは表向きで、大変厄介なことだった。
そんな中でN-BOXシリーズの企画には、さらなる深いマーケティングが必要だった。
(コンサルティングオフィスSHIGE代表、元ホンダ開発責任者)