経営トップの最大の使命は「後継者の人選と育成」と言われる。後継者の人選や交代時期を誤ると、企業は一気に衰退の道を歩みかねないからだ。
日本電産は4月22日、創業者である永守会長の最高経営責任者(CEO)交代を発表した。永守会長自らが日産自動車の副COO(最高執行責任者)から招へいし、昨年4月に日本電産の社長に就任した関潤氏が6月開催の定時株主総会でCEOとなる。同社のトップ交代はこれが初めてとなるが、後継者を決定するまでの道のりは平たんではなかった。
日本電産は永守会長が精密小型モーターを手がけるため、1973年に京都市で社員4人、小さなプレハブ小屋からスタートした。積極的なM&A(企業の買収・合併)を推進し、車載、ロボティクス、家電・住宅設備機器、物流など幅広い分野で精密小型から超大型まで、モーターと関連製品を中心に事業を拡大してきた。売上高1兆7千億円、グループ従業員数11万7千人、時価総額7兆円超の企業を永守氏が一代で育て上げた。
日本電産の強みは破たん寸前の企業や事業部を、買収後に時間をかけず再建する力があることで、数々のM&Aを成功させてきた。買収した企業のほとんどが永守氏のトップダウンによって即断即決で実行してきた。そのせいもあってカリスマ経営者となった永守氏の後継者問題が日本電産の大きな経営課題となり、ここ10年、迷走を続けてきた。
13年に日産系サプライヤーだったカルソニックカンセイ(現・マレリ)の社長だった呉文精氏は、日産の常務執行役員への就任が内定していたが、土壇場でこれを蹴って日本電産の次期トップ候補として代表権を持つ副社長に就任した。しかし、担当する家電産業事業などで永守氏の期待に応えられず、COO(最高執行責任者)職を外されると15年に辞任した。
液晶事業の不振で台湾の鴻海精密工業に買収される直前、シャープで社長を務めていた片山幹雄氏が15年に日本電産の副会長兼最高技術責任者に就任した際も一時は後継候補として見られていた。
次に有力候補となったのが日産出身の吉本浩之氏。日産子会社のタイ日産の社長を務めていたが15年に日本電産トーソクに転職すると翌年には日本電産の社長に就任。18年には社長兼COOに昇格して、永守会長は吉本氏を中心とする「集団指導体制」を敷くことを打ち出した。
しかし、日本電産の業績が落ち込むと、永守氏は集団指導体制を「創業以来の最大の失敗」と言い切り、描いていた後継体制をあっさりと撤回した。そして吉本社長、片山副会長を降格処分にした上で、日産から招いた関氏を社長に据え、永守会長との2トップ体制に改めた。そして今回、CEOの交代も決定し、長年の懸案事項だった後継者問題に目途を付けた。
ただ、永守会長はオンライン記者会見で「私は創業者であり、筆頭株主であり、代表取締役会長で、取締役会議長をやっていく。(交代を)そんなに驚くことではない」と述べるなど、今後も経営に深く関与していく姿勢を示した。