徳永の死去で、経営をどうするか徳永家の親族会議が開かれた。私は専務で、多少の株も持っていたが、元々は徳永に請われて勤めたに過ぎず、跡継ぎは徳永家が決めることだと思っていた。だが、徳永自動車という名を残すことを条件に私に経営を委ねたいという。そこで、徳永家の株を引き取って私が社長に就いた。話は少しさかのぼる。昭和44年11月、城北工場が大阪陸運局長…
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徳永の死去で、経営をどうするか徳永家の親族会議が開かれた。私は専務で、多少の株も持っていたが、元々は徳永に請われて勤めたに過ぎず、跡継ぎは徳永家が決めることだと思っていた。だが、徳永自動車という名を残すことを条件に私に経営を委ねたいという。そこで、徳永家の株を引き取って私が社長に就いた。話は少しさかのぼる。昭和44年11月、城北工場が大阪陸運局長…
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